エマは右手で胸元を押さえ、頬を赤く染めて、涙を浮かべていた。
初心な反応に、高揚感を覚える。 ルシアンは薄く唇を開き、舌でぺろりと甲を撫でた。 「ひぁぁんっ」 ビクンッとエマの体が震え、慌てて口を覆い隠す。 エマの甘い声に、笑みが浮かぶ。 ルシアンはさらに、手の甲から指先へと、舌でペロッと軽く舐めていく。 「ひゃんッ! ぁ……だ、ダメですっ」 「エマ。どうか、ルシアンと」 「んぁぁっ……ァッ、る、ルシアン、さまぁ……ぁぁっ」 甘い刺激に耐えきれなかったのか、エマはとうとう降参した。 名を呼ばれたことに満足して、ルシアンはようやくエマの左手を離した。 「ん、っ……ルシアン、様」 「エマ。怯えないで下さい」 ぽろ、と涙をこぼすエマに、優しく微笑んだ。 ハンカチを取り出すと、エマの左手を丁寧に拭う。 「る、ルシアン様っ」 「大丈夫ですよ、エマ」 ルシアンは立ち上がり、エマの頬をそっと撫でる。 戸惑うエマに、優しく言い聞かせる。 「最初に言ったでしょう? 美しいものを愛でるのは紳士の嗜み。これは私の挨拶のようなものです」 「ぁ、あいさつ……?」 「貴方はまだ若いから、世間を知らない。これは婚約者への裏切りではありませんよ」 「ぁっ……ほ、本当ですか?」 「ええ」 ルシアンの微笑みに、エマはホッと息を吐く。 素直に信じる姿を見て、良心が咎めた。同時に、エマの状況を把握する。 番のいるオメガが、他のアルファに反応することはない。 だが、エマはルシアンの接触を拒まず、それどころか甘い声を上げ感じていた。 (エマは、まだ誰とも番っていない) すでに第二王子の番になっている可能性もあったが、これならルシアンに勝算がある。 (情報を聞き出すくらいはできるだろう) オメガを利用するのは心苦しいが、ティエリーの命令を無視するほうが厄介だ。その刹那、気の緩みを見透かしたように、皇太子がふと口を開く。 「ダリウ殿下の奥方は、体調が優れぬそうだな」 「は、はいっ。皇太子殿下」 エマは姿勢を正し、あわてて答えた。 「王太子妃殿下はご体調を崩されやすく、たびたび静養が必要となりますため、本日は王太子殿下がお傍に付き添っておられます」 エマの答えに、皇太子はわざとらしく肩をすくめた。 「客人を放って、奥方の看病とは。ずいぶんと、愛妻家でいらっしゃるようだ」 「はい。王太子ご夫妻は、たいへん仲睦まじくございます」 胸が詰まる思いでそう告げると、エマは深く頭を下げた。 「決して、皇太子殿下を蔑ろにしているわけではございません」 すると皇太子は、からかうように笑みを浮かべる。 「そう固くなるな。冗談だ」 ようやく冗談を言われたのだと分かって、エマは胸の内で安堵の息を吐いた。 エマが顔を上げると、皇太子の後ろに控えているルシアンが、柔らかい眼差しを向けていた。 (ルシアン様っ) 胸の奥がトクンと高鳴り、頬が熱くなる。 だが、ルシアンへの思慕を悟られてはいけない。 エマは努めて平静を装いながら口を開いた。 「もし差し支えなければ、紅薔薇(べにばら)離宮よりご覧いただいてはいかがでしょうか。遠方よりお越しの客人には、特にご好評をいただいております」 「ふむ。良いだろう。案内せよ」 皇太子の短くも威厳を湛えた返答に、エマは恭しく一礼する。 「かしこまりました、皇太子殿下」 エマは案内役としての務めを果たすべく、ルシアンから視線を逸らした。 +++ 王宮にはいくつかの離宮があるが、紅薔薇離宮はその中でも特に華やかな場所だ。 外壁から内装に至るまで、一級品のルビーやサファイヤが惜しみなく使われ、それらで造られた薔薇も、至る所で美しく輝く。 金の装飾や、宝石の薔薇が光を受けてきらめく空間は、ま
ルシアンの瞳はルビーのように煌めいて、いつも優しくエマを見つめるのに。 (あっ。今日はルシアン様もいらっしゃるかな?) エマは懐に手を当て、忍ばせた小さな袋を確かめた。 ルシアンへのお礼にと、朝のうちに急いで用意したお守りの袋だ。 今日は王太子もレオナールもいないので、隙を見て渡せるかもしれない。 (ルシアン様っ) 昨夜の、甘い眼差しと、体に触れた手を思い出すと、奥がきゅんと疼く。 中に入った静香石が、クルンと動いて、思わず震えた。 「ッ……ダメ」 思い出すと躰が熱くなってしまう。 せっかく熱が下がったのだから、仕事に集中しなくては。 エマは気を引き締めると、皇太子が滞在する天耀宮(てんようきゅう)へ向かった。 +++ エマは『聖樹』専用の法衣のうち、準礼装の法衣を選んで身に纏った。 正礼装と同じく、くるぶしまでの長さがあり、袖口や襟元に金の縁取りがされ、銀糸でさりげなく刺繍が施されている。昨日のパーティで着たのと同じ格式の法衣だ。 そして、他の『聖樹』の準礼装に比べたら、まったく飾り気のない法衣である。 (恐れ多くも、皇太子殿下をご案内する役目を仰せつかったのに……僕だけ見劣りするんだろうな) 控えの間で待ちながら、エマは暗い顔でため息をついた。 エマのすぐ後ろには、先ほど王太子からの文を届けてくれた筆頭秘書官と、身なりの整った若い書記官、それに騎士団長の姿が控えていた。 みな、家格や役職に相応しい身なりをしているのに、エマだけがあまりに質素だ。 (……しっかりしなくちゃ) 『聖樹』であること以外に何の価値もない自分は、こういうときこそ『聖樹』の役目を立派に務めなければ。 「エマヌエーレ様」 筆頭秘書官に呼びかけられ、顔を上げる。 彼は中年の男性で厳めしい顔をしているが、思いがけず優しい声で話しかけてきた。 「私は、王太子殿下よりエ
翌朝、エマが目覚めると、熱もなく体もスッキリしていた。 ルシアンにもらった鎮静剤は、抜群の効果で、エマは驚きと喜びでいっぱいだった。 「ナタリナ、体が軽くなったみたい」 「良かったですね。エマ様」 「うんっ」 念のため、静香石を使ってフェロモンを抑え、今日の接待に向けて準備していた。 レオナールからは予想通り、体調不良の文が届いた。それも本人ではなく、秘書官が代わりに書いたものだ。 エマに仕事を押しつける内容を受け取り、ため息をついたのもつかの間、続けて王太子の筆頭秘書官がやってきて、思いがけない事態になった。 侍女長に呼ばれ、急いで本館の控えの間へ赴いたエマは、王太子からの文を受けとって、驚きのあまり立ち尽くす。 なんと、王太子が今日の公務を休むというのだ。 「王太子殿下は、お越しになれないと?」 「さようでございます。本日の接待は、弟君レオナール殿下に一任される予定でしたが……」 秘書官は言葉を切り、エマの後ろに控えていた侍女長を冷ややかに見つめる。 「どうやらレオナール殿下も、体調が思わしくないご様子。王太子殿下は、エマヌエーレ様に一任されると仰せです」 「わ、私が、皇太子殿下の案内役をっ?」 「エマヌエーレ様には、誠に申し訳ないと仰せでした」 「いえっ。とんでもないことです」 慌てて首を振り、謹んで承ると伝えた。 王太子が公務を取りやめるなど、本来ならあり得ない。 だが、渡された文には、王太子妃の容態が悪く、看病のために休むと書かれていた。 まだ正式に発表されていないが、王太子妃は第四子を妊娠している。王太子夫妻は揃って式典に出席したが、そのせいで無理がたたったのだろう。 (王太子妃様は、あまりお体が丈夫じゃないから) それに、王太子は正妃をとても大切にしている。 容態が回復しても、今日はずっと側で付き添うことだろう。 エマは、急な大役が回ってきたことに、軽くめまいがした。 事の次第を聞いた本
ルシアンは自嘲気味に呟き、テーブルにおかれた書類を手に取る。 部下から上がってきた報告書だ。 今回、ランダリエに赴いたのも、帝国に損害をもたらす重要な問題が発覚し、その調査を内密に行う為だった。 ここにいる間、王室の人間はティエリーを注視する。その裏で、ティエリーの側近は王国の貴族達と関わりを持ち、身分を隠した部下達が、密かに王都へ繰り出して情報を集める。 その為、皇太子であるティエリーが直接ランダリエ王国を訪れたのだ。 ルシアンは報告書に目を通しながら、貴族達の利害関係や所有する財産、投資先の情報を確認していった。 夜半を過ぎた頃に、ティエリーがやってきた。 酒臭い匂いに眉をしかめるが、ティエリーの顔を見れば、大して酔ってはいない。 ルシアンの向かいの椅子に腰掛ける。 侍従も付けずにふらっとやってくるのは、いつものことだ。 ティエリーは笑みを浮かべ、いつもより陽気な口調で問いかけてきた。「ルシアン。首尾はどうだ?」「あの婚約者なら問題ない。まだ番っていないからな」「それは朗報だ。情報は聞き出せたか?」「『聖樹』のことなら少し聞いた。……『聖樹』からは、アルファかオメガしか生まれなそうだ」「ほう? ベータは生まれないのか」「その点だけ、普通のオメガとは違うようだ」「他には?」「王族と側妃との間にベータが生まれたら、臣下に下る。だから妃以外の王族はアルファしかいないそうだ」「なるほど」 ルシアンの話に相づちを打ち、ティエリーはさらに問いかける。「それだけか?」「ああ」「お前、あの婚約者を追ってパーティを抜けただろう?」「話をする状況ではなかったんだ」 ルシアンは視線を逸らす。 大広間には、ルシアン以外にもティエリーの側近や部下が参加していた。情報収集のためお互いの動きに注意していたから
実は、エマには自由にできるお金がない。 王族の婚約者には王室費が割り当てられているが、そのお金はレオナールの許しがなければ勝手に使えないのだ。 エマを使用人用の離れに閉じ込めて冷遇するレオナールが、贈り物を買うお金など渡してくれるはずがなかった。 「エマ様が贈り物をされることも、あの男の耳に入ると厄介ですからね。お気持ちだけの、目立たない、小さなものがよろしいかと」 「小さいものかぁ」 「そうですわ。エマ様は『聖樹』ですから、祈りの言葉などはいかがですか? 『聖樹』のお守りだと言ってお渡しすれば、あちらも受け取って下さるでしょう」 『聖樹』は神殿に入り、神官と同じように過ごす。毎日身を清め、礼拝と祈りを欠かさずに過ごしてきたエマは、神官同様に、神の加護を受けた存在として扱われる。 親しい人や世話になった方へ、祝福や祈りの詩を贈るのは貴族にとって普通のことだ。『聖樹』が贈るものは特に喜ばれるので、頼まれて詩を書いたことは何度もある。 「僕の書いた詩で、喜んで下さるかな?」 「帝国にも似たような習慣があると聞きます。『聖樹』のお守りですから、きっと喜んで下さいますよ」 ナタリナは励ますように、笑顔を向ける。 詩を書いて渡すくらいなら、もしレオナールに見つかってもうるさく言われることはないだろう。 「じゃあ、祝福の詩にする。ナタリナ、紙とペンを出して」 「いいえ、エマ様。今宵はもうお休み下さいませ」 「でも、ちょっとだけ」 「今日は朝からずっと働き通しで、お疲れになったでしょう。明日も朝が早いですから、お休みになって下さい」 目をつり上げ、怖い顔で睨まれては、エマも降参するしかない。 大人しくベッドに入って横になった。 「ナタリナも、早く休んでね」 「ええ」 ナタリナが毛布を肩までかけて、優しく背中を撫でた。 エマが眠るまで、側にいてくれるのだ。 横になると、体がズシンと重たく感じる。 ナタリナの言うとおり、ずっと働きづめだったからだ
ルシアンの言葉に、おずおずと尋ねる。 「本当ですか?」 「ええ。薔薇を愛でても、罪にはならないでしょう?」 「はい……でも、」 「エマ。私は、可憐な花びらに触れただけです。貴方は、私に愛でられた薔薇」 囁かれる甘い声に、エマの心が震えた。 今まで口説かれたことのないエマは、すっかり胸をときめかせていた。 (僕を、薔薇だなんて) 戯れの言葉だと思いながらも、ルシアンに見惚れてしまう。 「もちろん、口外はいたしません。貴方の心を脅かすのは、私の本意ではありませんから」 ルシアンの言葉にホッとした。 「何も心配はいりません」 ルシアンは優しい声でそう告げると、エマの手を取り、左手の甲に恭しくキスをした。 「る、ルシアン様っ」 「私の、美しい薔薇」 「ぁっ」 煌めくような紅い瞳に見つめられ、鼓動が跳ねた。 心臓がドキドキと早鐘を打ち、甘い台詞に心が蕩けてしまうようだ。 「今宵はこれで失礼します。また、お会いしましょう」 ルシアンは優雅に微笑みを浮かべ、身を翻した。 遠ざかる背中を見つめながら、ドキドキとうるさく鳴る胸に手を当てる。 「ルシアン様……っ」 もう届かないと知りながら、愛しい名を囁いた。 薔薇に囲まれたその場所には、エマだけが残される。 まるで夢のような出来事に、エマは月を見上げた。 冴え渡る月を思わせる、冷艶な美しさは、エマの心を捉えて離さない。 しばらく立ち尽くしていると、見慣れた姿が飛び込んできた。 「エマ様!」 「ナタリナ?」 身構えていたエマは、肩の力を抜く。 ナタリナはエマの元へ駆け寄り、安堵の表情を浮かべた。 「エマ様、遅くなりまして、申し訳ございません」 「謝らないで。僕は大丈夫だから」 「あら? 熱が落ちつかれたようですね」 「うん。ナタリナこそ、大丈夫? すごい汗だけど」 「ああ